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フロイトの説いた『全能感』
文明の外側からしか見えない景色があります。
例えば、日本や世界の未来のこと。
現代に生きる私は、1986年生まれ。日本では「今が良ければそれでいいじゃん。
先のことなんかよりさー、今を楽しもうよ。」
そんな考え方が流行していた年。
努力や根性、熱さといった感情表現がどこか冷めた目で見られていた年。
チェルノブイリでは原子力発電所が爆発するという凄惨な事件が起こった年。
生まれてからすぐにバブルは弾け飛び、お金が全てを支配していく。
重く、暗い時代の始まり。そんな年に私は生まれました。
それでも、幼少期の頃を思い出せば、心の中にはいつも希望の光が満ち溢れていたように思います。
生まれたときから父親の顔も知らずに育った私でしたが、母と祖母、姉と従兄弟や親戚・友人たちに恵まれたお陰様で何不自由を感じることなく、慎ましくも愛に溢れたくらしを送ってこれたからでしょう。
幼少期の私には、「全てとはいわないけれど、大半のことは思い通りになる」という気持ちがあったように思います。
この心理のことをフロイトは『全能感』と名付けています。
母が子どもの欲求、願望を一つ一つ叶えてあげることで、本来は子どもが自身の力で努力し、苦労して乗り越えていくべきミッションをクリアしていく。
その繰り返しによって生まれる心理で、いつの間にか自分自身が王様やお姫様にでもなったかのように、なんでも思い通りになるという幻想を抱くそうです。
自分自身が何かすごい力を持っていて、この世はすべて自分を中心に巡っているという錯覚を抱くとフロイトは言います。
私は幼少期の頃、特に小学生になる頃まではこの感覚を特に強く持っていたように思います。まさに錯覚がつくりだす幻想の世界に生きていたのです。
しかし、中学生になり、高校生になり、独り立ちをし、大人になるにつれて私は様々な壁にぶつかっていきます。
その中で挫折したり、落ち込んだり、傷ついたり、傷つけたりしながらも、少しずつ自力で乗り越えていけることが増えていき、強くなっていく。
振り返るとそれなりに自立した大人になっていたのですが、それは『自力でなんとかする』精神を養ってこれたからこそ生まれた結果でしょう。
言い換えると、私は幻想から抜け出し、現実の世界での歩みを始めたのです。
さて、本題はここからです。
『全能感』の代償
フロイトの説く『全能感』における母と子の関係性と、よく似ているものが世の中にはあります。
それは、『科学技術』と『現代人』です。
科学技術の発展はとんでもないスピードで加速し、今や人間にできないことは一つも無いようにも思えてきます。
月には基地をつくり、肉体と意識を切り離して仮想現実空間での居住を可能にし、試験管の中で野菜を育て、治らない病気は無くなり、時間と空間を超越し、天候を操り、クローン人間すらも創り出す。
本当にすごいことですね。まさに神業です。
こんなものすごく便利さに溢れた環境に、生まれたときから囲まれていたら私は「全能感」を失うことなく神様にでもなった気になっていたかもしれません。
ボタン一つで見たいときに見たい番組を視聴し、リビングで家族との会話を楽しむよりもSNSに夢中になる・・・。
ボタン一つでほとんどの欲求が満たされる便利な世の中なのですから、当然そこにありがたみや感謝の念など抱くことはないでしょう。
満たされて当たり前だと思っていることに対して人は感謝の感情を抱きにくいのですから。
だんだんと人間よりも機械と触れ合う時間の方が増えていってかもしれません。
そして、それは身近なヒト・モノ・コトへの感謝の念を失っていくことに繋がっていたかもしれません。
ただし、その先に待つ未来は栄光ではなく文明の崩壊です。
文明が崩壊するのは今回が初めてではないようですが、果たして現代のように異質なまでに発展した科学技術を持った文明が滅ぶときに、この惑星は再生が可能なのでしょうか。
文明が崩壊したとき
例えばのお話です。
惑星が文明と共に滅んでしまった場合、一部の超富裕層は宇宙に逃れまた開拓をしていくのでしょうが、もしも何かが間違って私がその救われる人に選ばれたとしても、私はこの地球を見捨てて他所の星を支配し、開拓していくことなど望みはしません。
当たり前です。私たちは地球人であり地球という母に育てられた、この星の子どもたちなのです。
これは例え話ですが、絶対にこんな事態が起こらないということを誰が保証できるのでしょうか。
だからこそ、この時代に生まれながらにして幻想に惑わされず、しっかりと現実の問題と向き合おうとしている稀有な若者を見ると、尊敬の念が沸きあがってくるのです。
私は、そんな若者にこそ日本や世界が抱えている問題を解決に導き、本当の意味での世直しが出来ると考えています。
でも、そのためには文明社会という幻想から少しだけ距離を置き、外から現実世界を見つめ直す必要があります。
文明の外から世界を見る
科学技術という幻想の鎧を捨て去ったとき。
裸になった現実世界での人間はとてもか弱い生き物です。
食物連鎖のピラミッドの最底辺にいるといっても過言ではないでしょう。
頂点には大型の肉食獣が君臨していますが、私は本当の頂点は植物だと考えています。
植物が無ければ肉食動物の餌となる生き物は育ちませんし、水も生まれません。空気もありませんし、どんな生き物だって植物がいない場所では生きていけるハズもありません。
自然栽培の畑では、出来る限り自然の野山に近い環境に近づけるようにデザインを行います。仕事の要は、人と植物と動物たちとの適切な距離感を探っていくことです。
もちろん、危険もあります。
スズメバチや、マムシ。崖からの落下など、注意しなければ命にかかわることも少なくありません。
畑の中にはAIやパソコンも無く、スマートフォンも汗で濡れてしまいますので、写真を撮りたいときにしか持ち込みません。
ここでは自分の感性だけが頼りなのです。
木の声を聴き、森を見ることで生態系のバランスを考えて人が手を加え設計していく『自然と人間の共存アート』ともいえるでしょう。
私たちは、商業的な成功を一切望まないわけではありません。
しかし、文明が滅んでしまえばその財は無となります。
私たちが手に余る財を我が城に築きあげることよりも、地球という母の庇護から自立し、母に恩返しをしていくことが何よりも先決でしょう。
自然の中ではしばし文明を離れることができるのです。
電磁波の無い場所で、雑念を忘れ、自然の声のみに耳を傾ける。
紛れもない『現実』がそこにはあるのです。
私たちは、幻想から目覚め、現実の世界に光を導かんとする同志のみなさまを歓迎し、また、心より応援いたします。
一緒に、これからを考えていきましょう。